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1997年の記録へ

行程図(2)

マダガスカル行動記録(その2)

1998年11月17日(火)晴れ 広島−大阪

15時23分の新幹線で新大阪へ行って、はるかに乗り換えて関西空港に。そこから一駅戻って全日空ゲイトタワーホテルに投宿する。同行する広島市立大学の文化人類学者森山さんと二人で雲海でシャブシャブを食った。大谷和弘は9時過ぎに来て、3人で明日以後の予定を話した。獅子座流星群。

1998年11月18日(水)晴れ 大阪−シンガポール−モーリシャス

空港にて換金12万円 $967ホテルの方が良かった。
出国に際して、大谷和弘のナイフが機内持ち込み手荷物の中にあり、機長預かりの処置となる。1156JL721便離陸。流石、クラスが上だと席に余裕がある。昼飯(1時過ぎ)は和食にする。美味。軽食(4時過ぎ)マイレイジの申し込み。山岸のマダガスカルの鳥の本を読む。1740頃、シンガポール着。シンガからAir MauritiusにてMauritiusまで。となりはドイツ人。1905離陸外は既に暗い。予定には書いてなかったが、クアラルンプールに寄った。1時間の時差あり。モーリシャス時間で19時10分出発。出発前に蚊除けのスプレーを撒くのはこのあたりの行事となっている。0時にMauritius着MTTBがホテルを間違えて、Port Louisまで行かされタクシーの運転手が5ドルのTipを持って帰った後で、本来のホテルが分かり、別のタクシーで400ルピー(20ドル)取られて深夜の2時過ぎにブルーオーキッドホテルに移動をした。寝たのは3時頃である。

1998年11月19日(木)晴れ モーリシャス−レユニオン−アンタナナリブ

5時過ぎには目が覚めてしまう。2時間しか寝ていないが、昨日は飛行機でも寝た。このホテルは国道に面しているので、夜明け頃から車が煩い。好天で近所の石灰岩の岩山が美しいFodyがとなりのビルに来た。あとは鳩と椋鳥である。7時に朝食。7時半に迎えの車が来て、空港に8時15分くらいに着いて、手続きの後で、お土産のタバコを買う。9時45分発モーリシャス航空でプロペラ機である。Reunionに10時半くらいに着いた。ここは小さい空港で、流石、聞こえる言葉はFrenchばかりである。1115発。今度はエール・フランスのジェット機だ。1230タナに到着。手続きはスムーズで、特に、税関検査は公用旅券がものを言って、free passであった。ガイドのSergeさんに会ったが、日本の旅行者の古沢さんが薦めただけあって、日本語はかなり流暢で、しかも、森山さんとは知り合いであった。空港からの道で交通事故に遭ったが、13時45分に上海ホテルに到着。予め、聞かされていたので、予想通りの必要最小限のホテルだった。テレビなし、石鹸のみあり、タオルは2枚、バスタブあり、温水あり、机のそばにC型のコンセントあり。ハンガーは針金で3本。スリッパと寝間着は当然なし。コンピュータのAC電源となるコンセントが最大の満足である。外は坂道で、ジャカランダの紫色の花が大きな木に沢山咲いていて、美しい。今年の3月に広島で学位を取って帰国しているエミリエンヌが来ないのが気がかりだったが、2時半に正装して出て、先ずは銀行で換金した。色々な人がいて面白い。様々な皮膚の色、裸足の人、スーツの人、老人から青年まで、実に多様性に富んでいる。森山さんは既に、2人の知人に会った。一人は日本大使館のローカルスタッフで、もう一人は彼が昔、この国に留学していた時の家主の親戚だそうだ。銀行の外でエミリエンヌに会う。時間と場所の設定が悪く、空港に1時半に行ってしまったそうだ。採集許可の手続きに付いて、これから、マルタ先生に会いにいくそうだ。次いで、日本大使館に挨拶にいった。おりよく、渡辺俊夫大使が在室で、会見できた。森山さんはつい2ヶ月前に会っているし、森山夫人の父君が3代前の山口洋一大使なので、大使館の人は全員知っている。波田野宏二等書記官にも会ってロビーで話す。2人の女性館員とも会うが、そのうちの一人は去年の藤井さんの後任。Localのテオさんに会って、12月6日の空港の見送りを依頼した。我々の予定は館員が掌握している。Fort Dauphinで、Pakistan人が暴動に巻き込まれて、危険度1の注意勧告が出されている事を知ったが、現在は沈静化しているそうだ。
ホテルに戻り、手続きの書類の試料として、森山さんの履歴書を製作した。履歴をフランス語で書いたのは初めてだそうだが、流石に苦も無くスラスラと書いている。彼は大学で、フランス語も教えている。丁度、共同研究者のマルタ教授から電話があり、学生を伴って登場し、森山氏の部屋で長時間にわたり打合せをした。夜に森山さんが電話で話して、留学を承認したアンタナナリブ大学のもう一人のRAKOTONDRAIBE HARINANTENAINA LIVA ROMUALDさんからも電話で明朝会うことにした。

1998年11月20日(金)晴れ アンタナナリブ

天気は相変わらず、良い。時々曇るが、概ね晴れている。大分早く目が覚めて、日記を書く。8時から朝飯。8時半に森山さんが電報を打ちに行っている間に、突然、Rakotovao先生が登場。学生のLivaを受け入れたことについて、礼を言われる。決定は3月だそうだ。所が、彼女は今朝、本人が9時に会いに来る事を知らなかった。9時にエミとLivaが来て、そのうちに森山さんが帰ってきて会談する。彼女たちも先生がいたので驚いたらしい。Livaは英語が上手くて、真面目な学生らしい印象。サッカーも上手いらしい。テーマの話をする。ミカン科の植物の成分をやっているらしい。それをやるのもいいが、他のものも用意しろと指導した。
昼は村田参事官の招待で、大使館員と高級ホテルで会食をした。全て、森山さんの顔によるものだ。瘤牛のカルパッチョに伊勢海老の焼き物を美味しく食べた。流石、大使館のスタッフは国際経験が豊富なひとが多く、話題も幅広くて面白かった。天然物の話も大分させられた。話題の引き出し方も上手い。
帰って、エミの友人達が結成した日本の大学で学んだマダガスカル留学生の会のメンバーのEdouard君が来て、四方山話をする。熊本大学の大学院を出て、豊橋の大学で助手をやって、日本人の女性と結婚して、14ヶ月の子供がいるそうだ。日本語は上手い。夜は3人で近くのイタリアレストランに行って、一人40,000FMGくらいの飯を食う。朝、下着の洗濯をして、シャツは2枚、クリーニングに出したら、夕方に仕上がった。

1998年11月21日(土)晴れ アンタナナリブ

朝、8時に朝食。9時にEmilienneがLivaとChristianと来て、小さな買い物と、本屋に寄って地図などを買って、郊外のAmbohimangaにある昔の王宮に向かった。ジャカランダがやたらに奇麗で、蝶やカナブンが沢山飛んでいた。そこのレストランで昼を食べて、今度は、町の高台にある王宮の跡と、首相官邸の跡を見学した。首都の中心が鳥瞰出来る。森山さんは別行動。夜、Emilienneが尋ねて来て、採集旅行に同行する植物学者のトラブルについて連絡。夜、大阪から来たという日本人の女性に会った。単独でマダガスカルを3週間くらいかけて旅行しているそうだ。森山さんの義父に発つ直前に電話があった人だそうだ。

1998年11月22日(日)晴れ アンタナナリブ−ペリネ

6時半に食事をして、7時に出発予定が、マルタ教授からの電話などで少し遅れた。昨日の女性は7時にタクシーで出かけていった。国際観光の大きなコーチと昨年も同行した植物学者のMavoさんが来て、7時15分出発。最初は渋滞したが、町を出てからは、快適に東に向かい、8時15分にManjakandriane。水を買って10分間休憩。途中で昨日の女性が車を道端に止めて写真を撮っているところを追い越した。9時18分Mongoro川を渡り、黄色の大きなAlbiziaの写真を撮る。9時33分走行116kmでMoramangaを通過し、10時丁度にPerineのガイドの溜りに到着。去年案内してもらった中嶋暉躬さん以来のガイドMorisは先約あり。植物をある程度しっているガイドは「今日は受付担当だから案内出来ない。」代わりに少し知っている奴がすぐに帰ってくるそうなので、時間潰しに近くの蘭園を見物。マヴさんが案内してくれたが、今年は雨が少ないそうで、花も少ない。ノボタンとLantanaばかりが目立つ。やがて帰ってきたガイドのDonaはやはり、我々が求めている有毒植物の在処を知っているほどの知識はない。これらの会話は大体、マヴさんがやるが、森山先生が逐一訳して呉れ、時々、適切に我々の意志を伝えてくれるので、大いに助かる。ようやくSimonという今日は非番のガイドが植物を知っているというので、彼の家まで押しかけて交渉したところ、我々が提出した有毒植物のリストをみて、大体分かるという。夜行性動物の案内も含めて、15万フラン(約3千円)でどうだと言う事で、「Cassinopsisを見つけたら」という条件を提示したら、その木は保護地域の中で、一本しか見た事がないので、難しいといい、これだけ採るのは大変なのだと言うので、条件を外して交渉が成立した。昼飯を駅のレストランで食って、13時に再会した。
先ずは、近くからといって道端の木の中から、見つけていく。属だけしか分からないのが殆どだが、後で、マヴさんが鑑定してくれるそうだ。Rhus,Protorhus,Croton,Cnestis,Grevia,Zanthoxylum,Erythroxylon,Toddalia,Davaisなどを採る。(リストは別ファイルに)シモンは献身的にやってくれて、途中から仲間を連れて、荷物を持ってくれたり、木を折り曲げたり、かなりの貢献であった。
ホテルは町から10キロ近く離れたところに、最近(2年くらい前)出来たらしく、バンガロー風の洒落た豪華なもの。植物の処理に忙しくなったので、夜の部(ナイト・サファリ)は取り止めにして、森山さんと金を払いに行ったら、喜んで領収書にサインをしてくれた。夕食はホテルのレストランで食事をして、部屋で記録など。コンセントはCタイプだったが、アースの足が出ていて、使えないところもあった。

1998年11月23日(月)晴れ ペリネ−アンタナナリブ

飯を6時から食って、6時半に帰途につく。7時15分ムラマンガ。7時48分からAmboidaontanaを登り始めて、Marozevoの発電所を通って、8時16分に行きに買い物をした町を通過した。通行人を数えたら、50人中、靴(履き物)を履いているのが20人で、40%だった。8時40分追い越しの失敗らしい事故車を目撃。9時にTana突入。9時20分にホテルに到着した。天気は良かったが、前を走る車の排気ガスに大分やられた。
10時からマルタと植物学者のArmand先生とMavoさんと会談。13時50分に学部長と会見。14時から、有機化学系の職員とConferenceという事で、一席話をさせられた。この間の岡山と京都のpresentationが残っていたので、ノートパソコンを使って山村の仕事のデモをした。去年のマダガスカルの写真も見せた。学位論文のdraftを見せられて、審査を頼まれた。最初はmemoireというのでメモかと思ったら修士論文のことだった。
次に、物理学者の学長に会って、挨拶。こういう形式ばったことが好きな人だ。終わって、森山さんの「友達」のタクシー(床に穴が開いていて、下が見える)でホテルに帰る。他事な一日であった。

1998年11月24日(火)晴れ アンタナナリブ−フィアナランツォ

6時半飯7時12分にホテルを出て、7時45分空港に。荷物の安全検査は全くない。ただし、空港税とsecurity taxを取られた。MD872は9時30分に出発。16人乗りのプロペラ機に11人しか乗っていなかった。操縦席は開け放しで、前から二番目に乗ったので、操縦が良く見えた。出発前にストロボで写真を撮ったら怒られた。時々地図を見ている。高度1200ftを水平に飛んで圧力も温度も調整しないらしく、高度計もそのとおりだし、室温も下がってきて、耳も痛くなった。Fianarantsuo近くで棚田が見えた。相変わらず地面が赤い。禿山が多く、日本とは大分違う。10時40分にFianarantsuo着。10時50分に2台の輪駆動に分乗して、Soafiaホテルに到着。俺が乗ったのは新車で、未だ4816kmしか走っていない三菱Pajeroであった。昨日、タナから8時間かけてやってきたらしい。15時にホテルをでて、町中の景色の良いところに行く。子供が沢山、寄って来る。このあたりの子供はよく働く。ガイドのSergeに色々と教わる。このあたりのBetsileo族は頭が良くて、大学教授になる人が多いことや、この地名の由来はコピーという意味で、タナを摸して作られた都市だそうだ。国立大学があり、他に大学のある都市はTurearだけだそうだ。高台の王宮の跡にいき、町の景色を楽しむ。あたりに生えている雑草を教わる。
Duranta repens (Verbenaceae), Plumbago capense (Plunbaginaceae), Phyllarton madagascarensis (Bignoniaceae), Aphloia theiformis (Flacouriaceae) その他、Rubiaceaeなど。7時半に飯を食って、少し日記を書いたら眠くなった。

1998年11月25日(水)晴れ フィアナランツォ (ラノマファナ)

朝7時10分に出て、Ranomafanaに向かう。国道を離れる前にBokaという所で止って、近くの空き地に生えていたヤマゴボウのドデカンドラ種を採る。実を潰して、石鹸にするそうだ。トケイソウの写真。咳止めに使うキク科植物を採る(学名は別表)去年、イサロで採ったドラセナ。日本への直接ダイヤル式国際通話は16−81で掛ければ良いそうだ。ただし25度数が1万FMG(220円)だそうだ。それが物凄いスピードで加算されるらしい。テレカもある。採りながら行くから距離は稼げない。8時半に20km程で分岐。Alekamsy−Ambohimaを過ぎて、25km地点で道の左側でガガイモ科を2種採集。9時10分出。9時20分に右側の小川に降りてMonimiaceae,Apocynaceaeを採り、終にエミリエンヌの学位論文の植物のCassinopsis属の別種をArmand先生が発見。一株しかなかったが、そこを通りかかった現地の親子に「Hazmafaitraはないか?」と聞いたら、別の植物Veroniaを採ってきたので、「これは違う」といって本種を見せたら、「何だ、Voalahimavoの事か」と別の現地名を言って、息子が走って行ってアッという間に2株ほど採ってきたのには驚いた。10時10分に出て少し行ったところで道路上をゆっくり横切るハリネズミに似た動物Hemicentetes semispinosus を発見。Soraという現地名のTenrecの一種だそうで、形が面白いので、皆で写真を撮った。33km地点でCussonia vantsilana. (Araliaceae),Loranthaceae,Myrcinaceaeなどを採集。又、イガイガの実のなるウリ科植物を笠井さんの土産に採る。次いでMonimiaceaeの植物を2種と実のなっているCroton1種を採って、採集は終わりにする。12時10分に出て、12時55分にRanomafana入り口付近の川の見える景色のいい地点で弁当にする。Dombeya spというクサギに似た青桐科の木の花の写真など。50kmで目的地に着いて、入り口の前の喫茶店で珈琲を飲んで、ガイドの案内で国立公園の中を散策した。Lemurは12種いて、夜行性が5種鳥は114種いるそうだ。今朝宿で一緒に朝食を摂って出発したドイツ人の団体は、5日間くらいこの国立公園の中でキャンプをして鳥をみて帰ったのだそうだ。ヘゴは10種。途中で、研究者以外通行禁止の道をいったら、驚いたことにマボさんの昔の同級生がいた。ここに篭って動物の生態の観察をしているらしい。IBMのノートパソコンが置いてあった。さらに歩いて行くと外人の女性を案内している女性のガイドもマヴさんの同級生だそうだ。Golden bamboo lemurとオウムともう1種のlemurを見た。情けないことに、足がつり出して、皆に迷惑を掛けた。3時55分出。Ranomafanaの温泉の湧いているところに寄って、4時半に出て、飛ばして6時17分に宿に戻った。約120kmの行程であった。宿に戻って薦められて25000(500円くらい)でマッサージを頼んだ。気持ちよくなった。

1998年11月26日(木)曇りのち雨 フィアナランツォ(アンドリアンジチャ)

7時18分出発。日を背中に受けて西南から、南に向かう。橋で道が狭くなる前に瘤がある。そこを運転手はまめに斜めに通過する。右の岩山に元フランス人の家がある。Ambalavao付近には葡萄畑が多い。60年くらい前のプジョーが走っている。マダガスカルの部族の風習の違いを聞く。南のTendroyは牛が財産で、結婚のときの男の持参金が牛で、その数によって、格が違うそうだ。Ambalavaoの市は木曜日だそうで、人が沢山買い物に歩いている。8時20−30分に町が見下ろせる高台でガガイモ科を採集。
Ambalavaoの町中で、森林局の事務所によって、今日の目的地と採集許可に付いて、交渉する。保護地域内は採集禁止で、その外にはあまり、いい森がないそうだ。確かに、走っていても禿山ばかりで、あるのは外来種のユーカリばかりだ。9時10分出。パパヤの多い村を通過。10時左から流れ込んでくる沢の付近でキョウチクトウ科を採集。別のキョウチクトウ科。正午にAndrangitraのWFのofficeに到着。交渉とコースの確認、ガイドの依頼をして、前の芝生で昼飯。
12時50分地元のガイドを先頭に徒歩で出発。田圃のあぜ道を小川に沿って歩く。途中で、奇麗な砂場のようなところを通過したときに、ここは、牛泥棒が通過したとき、その足跡が分かるように、毎日、掃き清めている事を聞いた。雲が垂れ込めてきた。1時間歩いて、何もない。ようやく左の山に接近して、ダイダイ色の花を付ける豆科とキョウチクトウ科を採集。終に雨が降り出し、ミカン科の刺のある植物採集を最後に、元来た道を引き返すことにした。地元の農家のオバサンも採集に強力してくれた。Senecioの写真など。106km1655出。途中で雨のため引き返す。道路が通行禁止になっていたのをうまく説得して、開門してもらって通過した。途中で野火が散見された。自然発生か人為的かは議論のあるところだ。154 Ambalavao 1752 ,164 1804休み 工事中の橋が多く、deviationをしばしば利用した。19時10分ホテル着。(213)

1998年11月27日(金)晴れ フィアナランツォ−イサロ

7:35出発(0km)昨日と違って、Garage de pluiの心配は要らない。牛の群れに何度も会う。牛の値段は色々だが、100万FMG(2万円)くらいらしい。17km地点で高度計の調整。雲一つない快晴である。一里塚(borne kilometrique)のお陰で走りやすい。50km坂を下りて、葡萄畑高度1000米。タナから457kmである。
56km Ambalavaoの町を通過。9:20 88km高度940米地点で2種類の植物採集。ミソハギ科と黄色い乳液の出るガガイモ科である。景色は好い。25日に採ったと同じガガイモ科の実付きを採る。10:10出発。10:20 Ankaramana(101km)で運転手が朝食休憩。牛の群れ。森山さんが取材。10:45 Mafaitra (高度800m)110km。11:20 Zazafotsy(156km)通過。ナツメ(Ziziphus)が多いのはこの地名と関連か?いたるところで道路の拡張工事が行われている。何も無い赤い道をひた走る。ここまでは舗装が完成している。このあたりでアンモナイトの化石がでるそうだ。192km Ihosy 11:58分Deronixが多く大きな町だ。昼食をして、13時30分出。(194km)。1345 Fort−Dauphin分岐。(207km)1445悪路となる。253km悪路が終わって休憩。15時バッタがいたが、去年に比べて、数が少ない。高度900m。いい道を時速100kmで飛ばす。1503 Ranohira(281km)1520 298km。ホテルを往復して、植物をデポする。1550マンゴーの木の下のIsalo国立公園の駐車場着。歩き出す。1600 Hiskiski(マダガスカルチョウゲンボウ)が飛んでいる。国立公園内は採集禁止なので、写真を撮るだけにする。(別に掲載)大谷と森山さんはPisci Naturelleまで行ったが、残りは上で植物を観察してまっていた。帰りに駐車場付近でヤツガシラ、ホロホロチョウを見た。去年もここでヤツガシラを見た。郭公が日本と違う声で鳴いている。
6:20(313)出。6:42(330)宿に着く。夜には夕立があった。

1998年11月28日(土)晴れ イサロ−チュレアール

午前中、大谷は植物整理。残りの我々は、国立公園の外に位置するホテルの周りで植物採集。Menabeaとその他のAscとトケイソウ科の3種を十分量採る。10:57(389)チュレアールに向けて出発。高度は大体、800m 。果てしない道を只管に飛ばす。11:20(424)高度1000m右にVohimarinea山が見える。11:33(447)バッタが少しいた。(高度730m)。11:45(468)Zombitsy国立公園。11:47 Adansinia grandidieri (baobab)。12:06 (482)Sakaraha昼飯。ナイフは日本製もある。Euphorbiaは乳液をとって砂と混ぜて、魚毒にしたり、蝋燭にしたり、固めて、ボールにして遊ぶこともあるそうだ。通行人が面白い格好をして頭で荷物を運ぶ。昼飯は小さな食堂で小型ラーメン。如何いうわけか、ビールの隣りでコンドーム(矢印)も売っている。Cotton de Turealという犬が残飯を漁りにきた。13:10(508)出。Za−Baobabやタマリンドがある。14:10 (545)Andranosy沢山炭を焼いている。原料はユーカリとタマリンド。14:55(597)独特の形をしたTable Mountainが見える。15:02(601)Mr.Petignant*(右はアルマン先生)という人がやっている私設植物園を訪問。Armand先生が居るので、Gratisとなった。園長は裸で出てきた。四方山話をフランス語でして、園長の案内で、園を見物した。昨日、4月以来、初めて雨が降ったそうだ。フランスとの関係はよくなく、ドイツの研究者と共同研究をしているらしい。(園内の植物の写真は他のものと一緒に掲載)
*) 残念なことに、Herman Petignant氏は2000年3月に他界したとのこと。ご冥福を祈る。
16:30出。飛行場の脇を通って、16:50チュレアールのホテル着。シャワーを浴びて、植物のリストを作っている間に、皆はマーケットに行って、生薬を買ってきた。Armand先生は腹の調子が良くないそうだ。町の薬局で薬を買いに行って、ついでに生薬を見てきたらしい。食前のビールと食事。森山さんとマヴさんは良く飲む。

1998年11月29日(日)晴れ チュレアール−フォードーファン

Armand先生とSergeは2台の車で植物を積んで、2日掛けて、タナに向けて出発。旅の前半が終わった。8時15分に徒歩でマーケットに行く。人力車が多い。生薬市場で研究材料を物色。(別記予定)マラリアに効くという生薬や筋肉痛、マラリアとか狭心症に効く葉と小枝、筋肉痛、精力剤は一番若い森山さんが買った。別の店で、儀式に使う高い生薬を見て、香の原料になる樹脂を一つ買った。2000FMG。昼食にTunaの刺し身を食う。女主人の勧めで、新鮮で美味。1315空港へ1330着。1445タナからの飛行機着。1505時間通りに出発。飛行機の中でエミリエンヌと合流。これからは5人旅である。1555定刻にFort Dauphin着。晴れている。荷物を待つ間に去年と同じように子供たちが寄ってきて、飴やボールペンをせびる。ホテルの車でホテルに移動。橋詰さんが新任の杉原さんとやってくる。明日の夕食に招待をする予定だ。小山先生がBerentyにいることを聞いた。

1998年11月30日(月)晴れ フォードーファン(ルカロ往復)

朝、8時に出て、去年と同じガイドのJohnにより、LokaroのTourに出かける。湖畔のLaniranoから8時50分に舟で、汽水湖の水路を通り、海の近くの村で降りて近くの道を歩いて海に出た。水路ではTyphonodorum lindleyanumというサトイモ科の植物が目立つ。そのほかは、Pandanusや、Ravenalaである。確かに、色々の向きに生えていて、「旅人に方角を教える」というのは俗説であることが分かる。Papyrusも多い。Crynum(ハマユウ)もある。9時15分マングローブを通る。9時半くらいに上陸して、子供の多い村を通り、植物を見ながら歩く。家は小さい。Caesalpinia bonducellaや、Strychnos spの 実がなっている。リンドウ科のTachiadensisも奇麗な花を咲かせている。赤い花のCombretum spと豆科のタイで見たと同じらしい花。黄色のキクのPsiadia spもある。浜で、魚を捕っている二人連れの女性がいたが、男性が2人やってきて、「イセエビを採ってくるから、焼いて食わないか」と提案。2kgで5万FMGだと言うので、頼んでみる。岩山の向こうで、どうも生簀から出して来たらしいが、大小取り混ぜて7匹をぶら下げて、これで2kgだと言う。ガイドは予め、枯れ木を集めて火を起こして、熾きを作り、海老男が、生木を並べてグリルを作り、海老をナイフで半分に裂いて、塩水で洗って、火の上に並べる。やがて、いいにおいがしてきて来た。裏返して焼きあがる間にもう一人が予め取ってきたRavenaraの葉をテーブル(皿)にして皆で食べた。やや、醤油が恋しかったが、最高の味であった。[お勧めコース」
さらに歩いて、Nepentusを見て、Euphorbiaの写真を撮って、急な斜面を降りて、浜で少し休んで、暑い砂の道を歩き、途中で目的のコナラ科の葉(今年は実がなってなかった)を採って、村を経由して舟に戻る。舟は、直ちに対岸に移り、そこの高台にある食堂(やしの小屋)でホテルの料理をビールで食べた。海が綺麗だ森山先生は、やや、疲れて、ビールは遠慮された。食事をして、皆元気になったが、俺の手が、昨日あたりから、かぶれて痒い。ステロイドで押さえていたが、あまり、痒いので、ニポラジンを飲んだ。7時から、橋詰さんと杉原さんとLivoさんを呼んで会食。言葉の問題や、地方の情勢や、植物に関する情報を交換した。森山さんは生牡蠣を食ったが、私は遠慮した。

1998年12月1日(火)晴れ フォードーファン−ベレンチー

ガガイモ科の植物にかぶれた両手は、ニポラヂンのお陰だろうか、進行は止まったが、水脹れになって、破裂しそうなのが気になる。9:15ドーファンホテル出発。9:30マーケットで買い物。私設植物園でNepentesを観察。17km地点で果実を買って、道々で、植物や、気候の話を聞く。34km 9:45分。景色ががらりと変わる。少し眠いのはニポラジンのせいかも知れない。シザルのプランテーションが続く。43km11時三角椰子が出る。44kmアンドハヘラ国立公園を通過。58kバオバブの麓の市で、地元民の作った木彫りをお土産に買う。76km橋。78kmで国道から外れて、86km12時5分にBerenty着。昼飯を食って、2時半から森を散策。油蝉に似た蝉が多い。ガイドはBenoit。目的の植物を探して、gardenerに聞くとそう呼ばれる植物は3種あるそうで、酒を造るのは1種だそうだ。大きな木なので、上の枝を取るために、まず、近所の木で引っかけ棒をこしらえて、近くの木に助手を登らせて、見事に必要量を切り落とした。お礼に謝金のほかに、欲しそうにしていたので、剪定鋏をあげたら喜んでいた。その後、Naturalistの近くに移動して、目的の植物を採って、今回の目的をすべて終了した。時に午後6時。宿に戻って、シャワーを浴びて、7時半から、京都の小山直樹教授とその大学院の学生の市野君と会食をした。教授は明日発つそうだ。やはり、蚊には細心の注意をしているそうだ。市野君は森山先生が広島大学で教えた学生だそうだ。世間は狭い。

1998年12月2日(水)晴れにわか雨 ベレンティー

午前中、森を散策。10時からシザル麻の工場と民族博物館を見学。午前中に歩いたので腹が猛烈にすいていて、しかも料理が茄子の詰め物で美味かった。昼飯後は休憩して植物のリストを作った。7時から夜行性動物の観察に行った。夜行性レミューを2種とシファカの寝ているのを見た。ヨタカとフクロウも居た。10時に消灯。すぐに寝た。

1998年12月3日(木)晴れ ベレンティー−フォードーファン−アンタナナリブ

0735 (119km)出発。0748 (128km)マダガスカルで3番目に長い橋だそうだ。1958年にエッフェル会社が建設したらしい。牛車の通過を待った。新しいのに轍が外れて時間がかかった。0822 (146km)バオバブの木の下の土産物屋で少し買い物。0855 (174km)木曜市でごった返す。鶏の値段は雌で5,000フランくらい。七面鳥は25,000から30,000フランくらいだそうだ。0930 (191km)果実、蜂蜜を買う。0945 (193km)レイシを沢山買う。0952 (200km)空港着。1015 (204km)ホテル着。飯を食って、1220出て空港に。全て手続きは終わっている。飛行機が遅れて、1410出。15時半ころタナに着いた。Sergeが迎えに来てくれてホテルへ。彼は、あとから自分の家に保管しておいてくれた植物を持ってきてくれた。奥さんと子供も同じ車に乗ってきた。鋏をやったら喜んでいた。夜、マルタ教授から電話で、明日の打合せ。修士論文の発表会に審査員として出席を要求された。驚いたことに、謝辞にもう、俺の名前が入っている。中嶋暉躬教授から以前に同じような経験をしたと聞いていたが驚いた。

1998年12月4日(金)曇り アンタナナリブ

タナの気候はやはり、南部とは違う。朝、7時半に飯を食って、俺は午後からの審査の下読み。大谷は植物材料の処理。森山さんは銀行と大使館に挨拶。昼来るはずの車が来なかったので、慌ててタクシーで行って、少し遅れる。修士論文の発表会は女子学生のLeaさんが黒のスーツで正装して、銀のブローチで演壇に控えており、審査員の教授が俺とマルタを含めて4人で、別室で2−3分の打合せの後に、最前列で発表を聞く。森山さんは教室の後ろで聞いていた。発表は正味30分くらいだが、前置きと後の審査員の質問とコメントが長かった。俺もそれに合わせて、細かい事を聞いたりした。この国の基準で判定せざるを得ず、おお甘の中に、少し、辛みを混ぜたつもり。終わって、別室で合格証にサインをして、おもむろに、結果を発表して、公式行事は終了。その後で、別室で茶話会があり、発表者の両親も出席して、父親が謝辞を述べた。マルタが森山さんを紹介して、彼がマダガスカル語で挨拶すると、会場が驚嘆の声をあげて、彼の演説に聞き入っていた。マルタ教授も我々も多忙なので、すぐに席を立った。銃を持って、迷彩服を着た兵隊が10人くらい乗っている500FMGのタクシーブルースに乗って、途中で乗り換えて、今度は待ち時間を入れて15Milleのタクシーを使って、チンバザザの動植物園に行って、アルベール先生に挨拶をした。神戸の加藤篤先生の名前も出た。丁度、島先生夫妻が職員相手に日本語の会話の勉強をしていた。彼も、我々と会食を望んでいるようだったが、時間がなさそうである。7時から、大使館の2等書記官の波田野宏書記官の招待で、中華料理の会食。

1998年12月5日(土)曇りのち雨 アンタナナリブ

9時にエミリエンヌが迎えに来て、彼女の勤めている大学Institute Supeieur Polytechnique de Madagascar (ISPM)の見学に行った。郊外の高台に1993年に創設された私立大学で、校舎も新しい。経営貿易事務学科長が黒いスーツで登場するまでの間、駐車場で黒いハナムグリとネムのような木に来るゾウムシを採集した。科長は英語が達者であった。大学で、Raboanary Julien学長に紹介され、学生12人くらいの前で、紹介を受け、森山さんが現地語と仏語で日本の情勢や一般に関する質疑応答を行った。我々は、学長室で、教育設備と図書と学生、教官の交流の依頼を受けたが、古本を送る以外の協力はそう簡単ではないことを伝えた。国立のアンタナナリブ大学ですら、設備が十分でないのに、私立は大変である。昼に、Rakotovao先生の自宅に招待を受け、歯科医の主人と留学候補学生のLivaと一緒に豪華な昼食をご馳走になった。その後で、土産と植物を入れる袋を買って、宿に帰ると、連絡がない。空港の近くのEdwardさんのお宅に招待を受けた。彼は熊本大学に留学したときに知り合った日本の仁美さんと結婚して、14ヶ月のFanambyちゃんという娘が居る。弟2人と大きな家に住んでいる。帰りは雷雨となって、ホテルに着いたら、停電をした。そのため、パッキングは翌朝にしようと思っていたら、2時頃に着いたので、マブさんへの手紙とリストの修正をした。

1998年12月6日(日)曇り アンタナナリブ−モーリシャス−香港−広島

朝、6時に起きてパッキング。思ったより早く終わって、日記など書く。マルタ教授夫妻がホテルに訪ねてきた。3人で会って、採集と輸出の許可を確認する。その後で、エミリエンヌが父親と来て、博士の終了のお礼を言われる。その後で、11時15分Sergeが来て空港へ。いつもと違う道を行く。空港に着いた途端に、Air Mauritiusは2時間遅れるとのこと。モーリシャスで1時間しか待ち時間がないので心配したが、同じ飛行機だから問題ないとのこと。予めお願いしておいた、大使館のRocal staffのテオさんが、スーツで登場して、出国手続きを円滑にやって貰った。この方式は、荷物が90kgあって、モーリシャスからさきはビジネスなのに、そこまでの切符がエコノミなので差額をはらうか、上空変更にするか揉めたが、テオさんのお陰で、少し待たされはしたが、円滑に手続きが終わった。しかし、VIPの部屋で森山さんは警官の質問を受けたが、どうやら通過。沢山待たされて。2時のはずの便が4時45分に出た。1645出。モーリシャスには1時間少しで着いたが、空港で手続きが向こうのせいで、遅れて、ギリギリで乗りかえた。20時5分出。そこから香港までは、画席にテレヴィがあり、飯が2回でて、多すぎた。各席から国際(に決まっている)電話が出来るエアバス3400であった。香港着は10時過ぎ。約3時間の後れだが、香港の待ち時間が減って逆に助かった。香港では日航のビジネスのラウンジの桜で寛ぐ。生薬の本の買い物や、日本の新聞や週刊誌を読む。大した事件はなかったようだ。昨日からバンコクでアジア大会が始まって、開会式に先立って行われた女子マラソンで高橋尚子が暑い中をいい記録で金メダルをとったそうだ。香港からは日航756便の鹿児島経由福岡行きで、久しぶりで美味い和食をゆったりとした席で楽しんだ。鹿児島から、1830に出て、荒れが予想されると脅かされたが、全然荒れずに1920福岡着。荷物もすぐに出てきて、植物検疫も2−3個の抜打ち検査で済み、森山さんと一緒に通関を終わってスーツケースを預けて、タクシーで博多駅へ。20時20分のひかりの5号車に乗った。広島に21時43分着。家に帰ると流石に寒さがこたえる。

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行程図(2)